
琉球芸能共同研究の結成のきっかけや思い、参加に至った経緯などお聞かせいただけますか。
下地彩香さん:もともとみんなで舞台制作みたいなことをしていて、今回のかりゆし芸能公演を開催するにあたって、正式に名前をつけました。これまでは名前なしで活動していたのですが、名前をつけてやってみようかというところから、結成に至りました。
髙里風花さん:これまでも3人で、県外での公演を何度かやったことがありました。
佐久本純さん:結成は今年の4月ですね。今回のかりゆし芸能公演を開催するにあたって、会として、団体としての方が動きやすいということで、結成しました。「共同研究」という名前をつけているのですが、公演や舞台制作など自分たちが出演すること以外にも、幅広く一緒に琉球芸能について考えていきたいなという思いがあります。現在、メンバーはこの3人ですね。
琉球芸能を始めたきっかけ
下地:母が民謡をやっていたので、小さい頃から母が稽古する音を聞いて「いいなぁ」と思っていたんですけど。父が東京に転勤することになり、私も小学2年生の時に1年半くらい東京に住んでいて、「沖縄の人だったらエイサー踊れるんでしょ」「三線弾けるんでしょ?」と聞かれても、何もできないというショックがすごくあって。あの時は『ちゅらさん』というドラマがすごく流行った時代で、沖縄ブームが起こっていたんですけど。私はもともと北中城出身で、地元愛がとても強いはずなのに、何も知らないというショックがあったので、沖縄に帰ったら絶対に何か沖縄のことをやろうと考えました。
それで最初は北中城の中央公民館でやっている、子ども三線サークルに入ったのですが、とにかく楽しくてどんどんハマってしまい、今まで続いています。サラリーマンをしていた時期もあったんですけど、どんなに生きても100年くらいかなと思い、あと80年ぐらいなら好きな三線を弾いて暮らしていきたいと思って、それで脱サラして芸大に入学しましたね。
私はあまり器用なタイプじゃないので、働きながら芸能をするというのが、すごく難しいと感じてしまって。こんなに大好きな三線から離れてしまうのがとても寂しいという気持ちがあって、芸大に入りましたが、入学すると目から鱗でした。同世代でこんなにすごい人たちがいるんだなという驚きもありましたし、この中で一緒に三線が弾ける喜びをまた感じました。
ちょうどコロナの時期に大学院から入学したのですが、2年生の時にコロナが流行して、舞台活動が少ししづらい状況にいてという中での休学そして卒業だったんですね。それでもなるべく心が折れないように、卒業後も自分で舞台を作りながら活動していきたいなという気持ちを持っていた中で、このメンバーと出会いました。もともと沖縄市の芸能団体協議会で顔見知りではあったので、大学に入ってからも安心感があり、すごく仲良くなりました。
舞台を作るという発想は、芸大に入ってからで、自分で企画してもいいんだという発想がそもそもなかったです。でも1回やってみると、ひとりでやるには実演と制作をひとりでやるのはとても難しい。やっぱり仲間が欲しいという気持ちを持っていたので、いまはとても心強いです。あまりにもすごいものを見て、己の技術の未熟さに心が折れそうになったことはあります。でもやっぱりまだまだ三線が好きで、その気持ちで走っている部分があります。
私は聴くのも、もちろん好きですし、歌うこともとても好きで、特に舞踊地謡に心を惹かれています。まだまだ男性地謡が中心の世界ではありますが、どんどん女性奏者も活躍しているところなので、今回の公演は、女性地謡ですので「私たちらしく」というのを目標にしています。
佐久本さん:私は今回胡弓で出演していますが、普段は歌三線もやっていて、初めて三線を手にしたのが小学校3年生の時でした。出身地である沖縄市が主催する小学生を対象にした三線教室があって、そこにうちの母親が応募していて、本当に何気なくそこに行って三線をやってみたら楽しさを感じました。そこは年限があって3年間しかいられないんですけど、そこから3年経っても続けていきたいなと思ったので、三線教室で講師をしていた先生の研究所の門をたたいて、正式に入門し三線を続けてきました。沖縄市は琉舞研究所や音楽の教室とか研究所がとても多くて、家から徒歩圏内に何軒もすぐあるような場所で生まれ育ったので、身近にあったものではありますね。結構自分のまわりはみんなやっているというのもあったんですけど、私が幼い時に師匠の師匠の発表会があって、それを見てから地謡は憧れでした。
そこから小学校、中学校、高校と進むうちに、高校生になると進路選択というのが出てくるんですけど。最初はもともと県立芸大という選択は自分の中にはなくて、ほかの大学に行こうかなと思っていた時もあったんですね。だけど高校2年生後半とか3年生になったころに「県立芸大の琉球芸能専攻は世界でもひとつだよな」と思って、入学を決めました。
舞踊地謡がやりたいという思いがもともと強くあり、所属する研究所の活動だとなかなかそういう機会がなかったので、地謡として演奏したいという思いで芸大に入りました。学部を4年間終えた後も、もう少し勉強したくて大学院の修士にその後は進みました。すると今度は実技だけではなく、理論的な研究も求められていきますので、また2年間かけて勉強しました。
芸大に入ったもうひとつのきっかけとして、もともと沖縄や琉球の歴史や民俗的な話に興味があったので、三線や琉球古典音楽を通して、沖縄や琉球の歴史を学んでいくと、やはりいろいろつながってくるんですよね。歌の世界や音楽の世界、特に歌は沖縄の古語の発音をそのまま継承して歌っている部分があるので、昔の人はこんなことを考えていたんだなと共感しました。音楽を通して文化を知っていくということが楽しくて、それでずっといままで三線を続けてきました。
三線を弾き続けることは、ありきたりかもしれないけれど、沖縄で生まれ育って、先人の歴史の積み重ねの上に自分がいるということを考えた時に、三線を通して琉球の歴史や音楽の歴史を振り返ることや、自分の立っている場所を再確認するという感覚です。ひと言で言うと、自分のアイデンティティーを見つめ直すところかなと思うんですけど。それがいまの自分の立っているところで、今後、年を重ねて芸歴を重ねていく時に、いま自分がやっていることが未来にどうつながっていくのかを考えながら、琉球古典音楽や琉球芸能を継承していきたいと思っています。三線は、自分の立ち位置をより明確にしてくれるものかなと思っています。
髙里:私は、家族の誰かが琉球舞踊をしていたということはないのです。母が高校を卒業して専門学校に進学するために上京して、20代はずっと東京で過ごしていたみたいなんですね。そこで沖縄を離れて沖縄の芸能の良さを知って、もし娘が生まれたら琉球舞踊をさせたいということで、生まれた娘です。だからまわりのおばあちゃんやおじいちゃんがやっていたとかではなく、本当に誰もしていなかった環境で、突然踊りを始めることになりました。3歳の時に、宮城流豊舞会の宮城豊子先生に師事して、そこからずっと続けています。宜野座に豊舞会の支部のお稽古場があったので、そこに通っていました。私は小学3年生の時に「豊子先生の養子になりたい」と思ったぐらい、琉球芸能が大好きだったんですね。
宜野座の支部には先生が毎週いらしてくれたんですけど、小学3年生の時に沖縄市の本部道場で、子どもたちの合同のお稽古があったんです。その時に普段は年に数回しか会えない先生方がいらっしゃったり、2階が先生のおうちなんだなって思ったりして、「先生の養子になったら毎日踊りができるんだ」という感じで、初めて先生のおうちに行った時の印象がとても強く残っています。それくらい踊りが大好きでした。
それでもいろいろな経験をするうちに、ひとつのことを信じて続けていくのは思っている以上にすごくハードなことなんだなと思うようになりました。環境も思考も変わっていくなかで、体力も忍耐も結構必要だなということを感じていますね。大学を卒業して大学院に進学しましたが、1年休学しました。それは琉球舞踊に対して少し迷ったり、いま振り返るとやっぱり自分に自信がなかったり、自分の足りなさを言い訳にして、琉球舞踊ができないみたいなことを言っていたんですけど。いま思えば、自分の足りなさだったんだなって。自分を擁護するわけではないのですが、やっぱり芸大に入ると同世代のすごい人がたくさんいて、それを見て自信がなくなったんだと思います。でも結局踊りが好きで、休学中にも衣裳を買っていたのです。母は「踊りを辞めたいなら辞めなさい。ここまでやったからと言って、これからも続ける必要は一切ないよ」と言ってくれたんですよ。その言葉が支えではあったかなと思います。だけど休学しているのに衣装を買っている私を見て、母は「この子は辞めないな」と思ったみたいで、「好きな時に戻ったらいい」と言ってくれました。そこからまた続けていますね
私は母の勧めで3歳で始めたので、そこに自分の意思はなかったんですけど。やっぱり大学進学や卒業後も続けるのは、自分の意思だと思うんですね。ただそれを意識してやってきたということはなくて、本当に私は琉球舞踊しかできないんですよ。だから、本当に大好きだから続けているという感じです。最近よく考えるのは、すごく大げさでおこがましいかもしれないんですけど、人生ってそれぞれ役割みたいなことがあると思っていて、それは自分で選ぶものなのか、自然と与えられるものなのかはわからないんですけど。琉球芸能をしている人にとっては、それが役割なのかなと思います。沖縄の言葉で「すくぶん(使命、役割)」と言うのですが、それぞれのすくぶんとして与えてもらい、踊らせてもらえる機会をいただいているので、頑張ろうという感じかもしれないです。
かりゆし芸能公演の応募理由ときっかけについて
髙里:応募の動機としては、私が今年30になる年なんですけど。2、3年前くらいから「30歳の記念に何かやりたいな」という思いはあって、ちょくちょく話していました。今回、かりゆし芸能公演が2次募集をしていることを知ったので、「これはチャンスかもしれない」ということで応募しました。
下地:幅が広がればという感じですね。3人でこじんまりやっていたものから、補助を受けるような形で人を巻き込みながら、もう少し大きく活動ができるかなというのが、今回応募した理由ではあります。そこに髙里さんのアイデアが乗っかってみたいなところですね。
今回は北部にゆかりのある演目や演者の選定もあるということですが、内容について工夫したことはありますか。
下地:北部地域に特化して、今年30歳になるということで節目を意識しました。髙里さんの気持ちに乗っかってという部分で、北部にゆかりのある今年30になる人たち、たとえば演目も「伊野波節」や「汀間当」など、地元の人が地元で踊るというのがひとつキーワードになればいいなと意識しましたね。公演のタイトルは「新北風に舞う 乙亥の絢」とつけまして、乙亥(きのとい)は十二支十干で、髙里さんたちが「亥年」なので、そこにかけていて。
髙里:そもそもなぜ北部だったかというと、私が北部の宜野座村の出身で、小さい時から宜野座村で琉球芸能に関わり、活動してきたんですけど。琉球芸能界の中心は、やっぱり県立芸術大学の出身者が担っている部分が多いと思うのですが、北部にもお稽古場で頑張っているすばらしい踊り手さんがたくさんいると感じています。その状況を踏まえて、この機会に流派の垣根を超えて、30歳・北部というキーワードだけで一緒に何かできたらいいなと思い、今回メンバーを募りました。
本公演に向けて目標としていることや、稽古の中で意識したいことをうかがえますか。
下地:この公演で私は制作と歌三線という形で関わっていますが、今回は女性地謡でチャレンジします。ひとつの公演をすべて1チームの女性地謡で行うというのはあまり例がないため、私自身大きな挑戦になると思います。これまで私は先輩と組むことが多かったのですが、今回は同世代や少し上の方と組むので、そこもまたひとつチャレンジになるのかなと感じています。女性ということに捉われず、私たちらしい地謡でしっかり踊りを支えられたらいいなということを、歌三線として個人的に感じています。。
佐久本:私は地謡の中で胡弓で参加しますが、公演の運営的な面で、これまではもっと小さい規模の公演が多かったのですが、この3人でこの規模感の舞台をやるのは初めてなんですね。今回、賛助も含めて大勢の出演者と一緒に取り組むという規模感が初めてということを踏まえながらも、今後も公演を重ねていく予定でもありますので、次につながるようなことをどこまで自分たちでできるかを意識しています。今後、公演や活動をもっと大きくするにあたって、探りながら。経験やノウハウもまだ一歩目を踏み出したばかりで、会としてはさまざまな関係者に助けをもらったり、アドバイスをいただいたりしながら、まずは経験を積むことを意識して今回の公演制作に取り組んでいます。
髙里:今回かりゆし芸能公演に採択いただいて、古典の演目も広く見てもらえるようにということもありましたし、30の節目ということもお話しました。それは、年齢が30の節目ということではなく、これまで10代、20代と琉球芸能をやってきて、ここからは自分で琉球芸能をする、ここまで続けたということは、今後も生涯をかけて琉球芸能をやるという決意がある出演者の方が集まっています。これまで培ったそれぞれの古典、琉球芸能に対する技を披露する場として、それぞれ今回一人踊を組んでいますので、そういうところも見てほしいなと思います。それぞれがこれまで培ってきた技を、今後を見据えた発表の場というような決意を持って、みなさんそれぞれが挑んでいます。北部にゆかりのある演目を組んでいますが、北部地域は豊年祭など地域芸能がすごく盛んで、それはとても魅力的なことです。
そのいっぽうで、中南部に比べて劇場の数自体が少ないので、劇場で琉球芸能を鑑賞する機会も少ないと思われます。今回、若い世代が公演を企画することで、北部の芸能をしていない同じ世代のみなさんも、同じような年代の人たちが何かやっているんだねということで、見に来てくれたらいいなと思っています。
今回の舞台を通して今後団体としてどうなっていきたいか、次のステップに向けての展望をうかがえますか。
下地:これはみんなでちょこちょこ話をしているのですが、必ずこの規模でどんどんやろうというよりも、今回のような規模の公演を作って活動もしますが、たとえばワークショップとか、もう少し小規模の機会を作ってもいいかなとも思っています。「研究」という言葉をせっかく会の名前に入れたので、研究という切り口で琉球芸能と向き合ったり、そういう場を設けて参加してくれた人みんなで一緒に考えるという時間や場所だったり、そういったことをこの3人でできればなというふうに感じています。
佐久本:公演以外のことで、勉強会みたいなこともゆくゆくはできたらいいなと思っています。どうしても我々実演家は、演奏することや踊ることに関心がいきがちですが、でもそれが成り立つために音楽がある、踊りがある。その前に何があるのかというのは、実演するだけではわからないところもあると思っていて。もちろんそこには踊りや音楽ができた時代から現在までの隔たり、長い年月があるからこそ、我々の今の感覚とは遠いものになっているという自覚があるので、だからこそ、そのギャップを埋めるために能動的になって勉強をしないといけないと思っています。
特に我々音楽は言葉を歌っていますが、その言葉はかつては使われていたけど現在はもう使っていない言葉で現代語とは発音も違うし、時代が移り変わる中でどんどん意味も変わっていくのを自覚しながら意図的に勉強していかないといけない。ただ形だけが残っていく芸能にはしたくないので、しっかり中身が伴った形で今後継承していけるような勉強会をと考えると、我々だけではできないので、有識者や研究者などさまざまな先生方も巻き込んで、芸能に携わる実演家が勉強できるような機会というものを持ちたいです。すごく大きなことを言っていますが、それができたら今後の琉球芸能にとってもいい方向になるのではないかなと思うので、いつかできたらというのはありますね。
下地:これまでもみなさん行ってきていますが、いろいろなアプローチの方法があるので、我々ならではみたいなことができればいいなとは思っています。もっとざっくばらんなとか、もっと敷居を下げるとか、そういったこともできるかもしれないですし。実際に「上り口説」の歌詞に沿って全部歩いてみるとか、やってもいいかもしれません。じゃあ桜島まで船に乗ってみましょうかとかでもいいですし、そういったもっとカジュアルでもいいかなと思っていますね。聞くと、なるほどねというつながりができるので、みんなで一緒に学ぶことができれば。
髙里:そうなんです。見てもらう側、聞いてもらう側の方々、それぞれを育てるというか。
下地:私ももちろん聞き手にまわることもあるので。私も教室で教える時に、歌詞の意味まで全部きれいに説明できるともっとおもしろくなるけれど、まだまだ知識が追いつかない部分も多いので、そこをカジュアルに。カジュアルはいい意味でちょっと気になるキーワードですね。
髙里:お酒を飲みながら琉球芸能の話や、それぞれが持っている知識をお話する会があってもいいなと思ったりもします。やっぱり公的な機関の講演会とかだと、登壇する先生との距離がすごく遠くて、質問するにもちょっと硬くなっちゃうこともあると思うんですけど。
下地:もう少し小規模で、少人数で。
髙里:話してくれる先生も、芸能の硬さだけではなく、先生のその当時の暮らしとかまで聞けるようなお話し会。講演会というよりお話し会みたいな空間ができたらなという話をしたり、あとはワークショップですね。子どもたちを育てるというか、今後の琉球芸能の担い手を応援すること、下から持ち上げるのは琉球芸能に絶対に必要になってきますよね。そんなことを考えたりします。今回の公演に関しては、北部公演一度きりではなく、それぞれの暮らしもスタイルも琉球芸能への向き合いかたも変わりながらとは思うんですけど、その中で数年周期で成果発表というような機会を北部で設けたいなと思っています。
これは実現できるかわからないのですが、北部のさまざまな地域、今回は名護だけどそれぞれの出身地をまわれるようになったらいいなということも考えています。そして今回は女性5人の琉球舞踊公演ということで、ママもいるし独身もいるしという中で、お稽古の時はどんどん子どもたちを連れてきていいよというふうにしているんですよ。お稽古中は踊らない人が子どもたちを見ていて、それはやっぱりママになったらもう琉球芸能ができないというのは、すごくもったいないなと思っているからです。ママになっても琉球芸能が続けられるようにするためには、どんなことができるんだろうという感じで柔軟さも持ちたいなと。子どもが小さいからこの方の出演はやめようとかではなく、じゃあ自分たちが何ができるかとか、そういうことを考えていきたいなと思っています。
これまでの芸能活動の中で苦しかったこと、続けてきてよかったこと
下地:4年前からお教室をやっていて教えていますが、あまりたくさんの人に一気に教えるというのは、私のスタイルとしてはあまりうまくできない。やってみて少し難しいなと思ったので、個人個人になるべく関わるようにしたいのです。個人個人と関わりながら教えていく喜びとしては「生活に潤いが出た」と言ってもらえたり、また実際に舞台を見た時にまったく知らない歌を聴くのと、実際に自分が弾いたことのある曲を聴くのとでは、やっぱりアプローチの仕方が変わると思います。そういった意味で、観る人の視点を新しく開拓できた時は、お教室をしていてよかったなと感じていますね。
お教室もなるべくただ楽しい場所にならないように、しっかり一歩一歩を踏み出せる場所として考えています。研究所登録をしているわけでもないし、ただ週1回集まって稽古するというすごく楽しい場所ではあるんですけど、それだけにならないようにというのはお教室をしながら思うことですね。教室の前にはカルチャーセンターで教えたり、うちの師匠の代稽古などをしていて、そこで子どもたちに教えたりというのが中学、高校生ぐらいからあったので、そういったことを経て感じているのかなと思います。
佐久本:やっぱりずっと好きで続けているので、あまり苦しいと思ったことも実際はないんですけど。やっていてよかったなと思ったのは、いろいろな場所で演奏をさせてもらって、初めてこの音楽を聴いた、初めて見たという人に届けられた瞬間は、毎度のことながらやっていてよかったなと思っていますね。自分ではさまざまな所でやっているつもりでもあるし、県内の年間公演数とかを見ても、さまざまな所でやっているとは思うんですけど。
県外の人や、沖縄にいても縁がないと公演を見る機会がないので、いつ自分の演奏がその人にとってのファーストコンタクトになるのかはわからない。だからこそどんな場面であっても、どういった演奏の場であっても常に気を抜かないようにやっているつもりではありますが、まだまだこの音楽を聴いたことがない人がいることを思いながら、今後も演奏を続けていきます。一番うれしいのはそこですね。初めて聴いた、見たという人が今後、継続的にこの音楽のファンになってくれたらいいなと思いながらやっています。
髙里:自分と向き合うことが苦しいです。よかったことは、やっぱり芸能を通してさまざまな方に出会えることですね。「劇場が終わるとき」という映画があるのですが、その作品を見た時に、私は琉球芸能をやっているから沖縄を振り返る時間があるんだなと思ったんですね。毎日沖縄のことを考える時間があるなかで、琉球芸能をやっていなかったら、こんなに沖縄を振り返らないんじゃないかと思った時に、やっていてよかったと思いました。沖縄の人として沖縄のことを毎日考えられるというのは、琉球芸能をやっているからなんだって、生活の節目節目で思う時に、続けてきてよかったなと思います。
かりゆし芸能公演は、若手実演家の育成を目的として、年齢構成比率を要件に実施していますが、みなさんの世代に今後求められることはどんなことだと思いますか。
下地:これまでの話の中にもちょこちょこ出てきていますが、器だけを次の世代に渡さない。中身が入ったまま次の世代に渡せるように。たぶんまだその器にものを入れている最中だとは思うんですね。まだまだ師匠がみなさん元気なので、なるべく器に芸を入れる。そういうことを何て言葉にしたらいいんでしょうね。
佐久本:今はその途中ではあるんですけど、30の節目という話も出てきつつも、人生の半分以上は芸に捧げているところもやっぱりあるし、今後も続けていくとなると、人生の中で芸ができる期間というのも限られているし、技のピークというのもたぶん年代によってあると思うんですね。でもこれからの10年、20年と考えた時に、今度は自分たちが下の世代を育てていくこと、すでに教室をやっている人もいるし、いろいろな所で教えることに携わっている人もいるので。
今後も下を育てながらも、未来に芸を一緒に継承していくということが、我々の世代が求められていること、やれることなのかなとは思っています。芸をつないでいく上で、芸能は無形のものなので、形は変わっていくだろうし、いろいろなアプローチの方法もあるだろうとは思うんですけど。でもやっぱり核となる部分は崩さないように継承していく必要があると思います。何が核かということを見極めるのも、今度は自分たちがやらないといけないことだとは思うので。芸の本質とは何なのかというところを、すごく大事にしながら伝えていきたいなと思っています。
髙里:個人的に琉球芸能の活動をするうえですごく意識していることは、本当に意味のあることをすることです。琉球芸能はやっぱり華やかだから取り上げられやすいですし、すごく注目されやすいのですが、だからこそ何が目的かブレやすいとも思うので、絶対に琉球芸能を利用しないということを私の活動の理念というか、すごく強く思っています。自分がスポットライトに当たりたいとか、自分が何者かになりたいということのために、意味のないことはしない。それが本当に琉球芸能のためになるのだろうかということは、すごくしっかり考えるようにしています。でもそれは自分の主観で判断しているので、それが正しいのか間違っているのかはまだわからないんですけど。
だからこそ、琉球芸能のために何ができるんだろうとか、どういうアプローチをしたらいいんだろうということを考えて、常に意識していますね。自分の中で判断の基準を持てるように。それは考えることもですが、さまざまな舞台を見るとかいろいろな機会に足を運んで、自分がどう感じたかということをしっかり覚えておくということですね。そこでインプットしたことを、また違う形でアウトプットする機会を作れたらというのがあります。
私は琉球芸能が大好きで、すごくこの芸能を敬愛しています。これまで歴史とか関わってきてくれた人がいるから、琉球芸能はここまで続いているわけじゃないですか。私はこの長い歴史の中の「いま踊っている人」という感覚なんですよ。そのうえで、なくならないようにこれをどのようにつないでいくかということだと思うので、琉球芸能本位で活動するということを考えていきたいなと思います。ブレそうになったら教えてください。さまざまな意見を言い合える仲間がいることも、とてもありがたいですね。
みなさんそれぞれのこれからの目標や、新しく挑戦したいことはどんなことですか。
佐久本:先ほど話したことと重なりますが、これから自分が教える立場になる時期かなとは思っていて、今まで自分がやってきたことを伝えるというのが、どれだけ難しいかというのも今は少しずつ痛感しているところではあるんですけど。教わったことややってきたことを教える時に、この人にこう言って伝わったので、別の人にも同じような言い方で伝わるかと言うと、そうじゃないと思うんです。今度は今まで自分が経験したものを伝えていく時の伝え方や芸の継承の仕方、教え方というのを自分の中で今後の課題として持っていて、その辺が上達できるようにしていきたいなと。個人的なことではありますが、それが今後の私の今回の節目を越えての目標かなと思います。
髙里:やっぱり技術の向上ですね。もっとお稽古を積んで、もっと上手になりたいです。ここ数年はさまざまなことに挑戦させてもらう機会も経験しましたが、琉球芸能は簡単じゃないので、しっかり技を身につけてもっとがむしゃらに頑張りたいなというのを今はすごく強く思っています。やっぱり先輩方、先生方はすごいんですよね。舞台を見て、お稽古一緒にさせてもらって、いつも本当に足りない、足りなさをすごく感じるので。新しいことをすることも大切なんですけど、自分の地の部分を固めていくことを意識しているので、新しいことはいまはあまり考えられないですね。やっぱり外向きになる中で、内側もしっかり基盤がある自分でいたいなというふうに思います。だから何かが浮かんだらやると思うんですけど、いまはすごく内側を鍛える時間かなと思っています。
下地:私も4年前ぐらいに教室を始めて、そこで自分ももっと上手にならないと教えられないなという部分で、技術の向上は継続してやっていかないといけないなというのを強く感じ続けている毎日です。それとあえて新しいことというふうに言うなら、もう少し日本語を勉強すること。それは誰かに伝えるためにいろいろな言葉を知って、さまざまなアプローチを持つということですね。これは生徒さんだけではなくて、今ここでのインタビューもそうですし、聞いてもらった時にしっかり自分の考えを言えるように。言葉にあえてしない部分があってもいいと思うけど、言葉にしたいと思った時に手数がたくさんあるように言葉を持ちたいなと思っています。言語化する力ですね。言葉の選択肢を増やしたいです。
今回の公演をどんな方に見に来てほしいですか。
佐久本:今回は、30歳前後の人たちがこれだけ真摯に向き合って芸能をやっているというところを見てほしいので、近い年代ですね。職場の同僚とか芸能をやっていない友達に、普段見せていない表情を出演者は舞台の上で見せてくれると思うので、そうやって芸能に向き合う姿を近い年代の人たちに見てほしいと思います。
下地:かりゆし芸能公演という企画の枠組みの中なので、まったく初めて芸能を見るという方が来た時に、よりわかりやすいようにこちらが準備できることをしようと話しているので、もちろん初めての方もそうですよね。だからと言って初心者向けの入門編の公演なのかというと、初心者の方以外が観たとしても見応えがある演目もたくさんあって、みなさんもちろんお稽古をしっかりやってきているのでと言いつつも、芸能をやっている人にも来てほしい。欲張りなことを言ってしまうと、幅広い方に来ていただきたいという気持ちですね。
髙里:北部の方が劇場に足を運ぶことを経験してほしいなというのと、やっぱり本当にひと公演を通して女性地謡というのはあまりないと思っていて。これは男性、女性ということではなく声色の違いがある中で、どんな表現があるのだろうというのは、芸能をやっている方にもすごく注目してもらいたいなというのはあります。
現在、SNS等の発展により多数の娯楽が存在する中で、琉球芸能はどのような進化が必要で、その価値や魅力はどのような部分だと思いますか。
下地:娯楽かどうかというところが、まずひとつどうだろうと思ってしまって。難しいですね。
佐久本:我々がやっている琉球芸能が、娯楽と一緒に並べていいのかというところから、まず検討したいと思っていて。後半の「どのような進化が必要で、琉球芸能の価値や魅力はどのような部分だと思いますか」というところで考えると、やっぱり今は琉球舞踊や琉球古典音楽というものが、無形文化財指定を受けているので、それを担っている人たち、継承していく人たちという考えがあるので、文化財かなというのは私の意識としてはあります。
娯楽とかエンターテイメントというと、商業に寄っていくものなんですけど、必ずしもそうじゃないかなと思っています。もちろんそこに振り切ったやり方や、もちろんそういったジャンルもあっていいと思うんですけど。いま私たち琉球芸能共同研究がやろうとしているのは、大きく言うと「文化財の継承」というところかなと思います。さまざまなやり方を広めていくこと。普及していくやり方はあるのですが、本質的な良さみたいなところを見てもらえるアプローチに我々は取り組んでいきたいです。じゃあどうしたらいいのかと言うと、まだ具体的な案はないのですが、私たちがやっている音楽や踊りを用いて、現代的な音楽をやるとかそういったアプローチもあるけれど、何か別の方法で考えていきたいなというのが、我々の団体の目標でもあるので。
下地:進化と言われると変わっていくのかと思うけれど、アプローチの仕方はいろいろあっていいと思うので、舞台の在り方やお客さんに事前に何か体験してもらってからやるとか、それが進化になるのであれば、そういったアプローチはあっていいかなと思います。
髙里:私たち3人に共通しているのは、琉球芸能が大好きで、そこに対するすごく大きなリスペクトです。だから変える必要がないというか、見てもらうために外側からどうアプローチができるのかみたいなことを考えたい3人なので、この質問は少し難しいなというふうに感じたんですけど。でも古典舞踊から雑踊という時代の変遷もあったので、進化という言葉なのかわからないのですが、社会に対応するという柔軟さも必要だなということを思っていて。でもそれができるくらいの実演家になるために、まだ自分たちはお稽古や研究とかが必要な段階なんだなというふうに思います。琉球芸能を進化させるまでの地盤がない。
下地:でも進化はおもしろいね。ちょっと今考えてみると、稲作はもう皆が皆やっていないみたいなところで、だからサラリーマンの琉球舞踊があってもいい。進化ってそういうことですかね。ネットには、琉球舞踊の良さがなかなか乗りにくいというのが難しさのひとつとしてあって、これはきっとコロナでみんな体感した部分ですが「やっぱりライブっていいよね」という話をコロナの時期はみんながやっていました。それがまたライブに行けるという選択肢が出てきた時に、そういう声がちょっと薄れたような気もするんですね。歌は空気の振動で伝わっていく音なので、それも含めて生なんだよっていう。
だからやっぱりSNSではなかなかその時の緊張感だったり、空気感だったりというのが乗りにくいので、やっぱり実際に舞台を見に来てほしい。たぶんこれは私たちだけではなくて、本当にさまざまな人が感じていることだと思うんですけど、そこにつながってくるのかな。SNSに実演を載せるのではなく、たとえば公演や舞台に対する気持ちだったり、なんか全然別のアプローチができる。反対だからやらないよではなくて、使い方を考えていく時代なのかなというふうに感じています。本番までの準備している様子を載せると「こんなふうに準備しているんだ」とか「今日のお稽古はこんな感じだったんだ」というふうに、公演を見に来る人も一緒に楽しみな気持ちになっていくという面では、SNSはすごく便利なものかもしれませんね。
髙里:窓口のひとつ、琉球芸能の存在を知ってもらうというところの一番最初の入り口として、利用するのはいいのかなと思いますね。彩香さんが言ったように、舞台をそのまま映像として載せると、投稿を見た人がそれで舞台を見た気になってしまって「これが琉球芸能か」と思うともったいないなと思うので。劇場に来てもらうために、どんな発信ができるのだろうというところを考えていく。1回劇場に来て、舞台を見て感動したり感激した人は何回も来てくれると思うので、やっぱり「すごい」と思ってもらえる舞台を作るというのが、実演家がやるべきことだと思うので、その積み重ねかなと思います。
取材日:2025年8月15日(金)
取材場所:(公財)沖縄県文化芸術振興会 会議室
プロフィール
佐久本純(さくもとじゅん)
琉球古典音楽野村流音楽協会、琉球古典音楽野村流保存会、琉球古典音楽湛水流保存会
髙里風花(たかざとふうか)
宮城流豊舞会
下地彩香(しもじあやか)
琉球古典音楽野村流音楽協会