玉城流踊ぃ飛琉 宮城恵子琉舞道場による琉球舞踊公演「つむぐ」が、9月23日に国立劇場おきなわ小劇場にて開催されました。それに先駆けて9月17日に浦添市前田にある道場で稽古を見学した際には、宮城恵子さんが子どもたちと同じ目線で向き合って、稽古に臨む姿がありました。1995年に設立され今年で28年目を迎えた「踊ぃ飛琉(うどぅぃはる)」。宮城さんとお弟子さん3名(比嘉一歌さん・小渡朱莉さん・中村麻桜さん)に、今回初めての出演となるかりゆし芸能公演を振り返りながらお話を伺いました。
ーかりゆし芸能公演に応募した理由やきっかけをお聞かせいただけますか。
宮城恵子さん(以下宮城):かりゆし芸能公演に出演するのはこの子たちは初めてですが、私は東町にあった旧労働福祉会館の頃に以前の琉舞道場で、火曜日のかりゆし芸能公演に出演させていただきました。飛琉(はる)になってからは、初めてです。
新型コロナの流行があって、やっぱりモチベーションも下がったんですね。クラスターにならないようにと思い、ちょっとピリピリしている時もあったんですけどそれでも子どもたちはお稽古に来てくれる。(涙ぐむ)この2年間は本当に何も形にできなかったので、舞台がないということは、特に中学生や高校生にとってこれからの進学などでどんな活動をして舞台に立ったかなど、書くことがないですよね。そういうことを考えて私はかなり落ち込んでいたのですが、それでも子どもたちは休まずにお稽古に来てくれるので応募を決めました。
-応募するにあたって、大事にした軸のようなものはありましたか?
宮城:子どもたちを舞台に立たせたい、スポットライトをあてたい、それだけです。応募しても受かるとは思っていなくて、子どもたちには「自分たちはまだまだだはずだから、難しいと思うけど一応受けてみようね」というような話はしましたね。ですから、まさか補助を受けられるとは思いませんでした。
-公演タイトルの「つむぐ」を含め、公演の内容や工夫したこと、意識したことなどをうかがえますか。
宮城:正直にいうと、子どもたちに公演について話すまで時間をかけたんですね。(飛琉には)7人の教師※1がいるんですけど、県外に2人、海外に2人、沖縄に2人、離島に1人という状況で、みんなそれぞれ離れているので全員と相談しました。オンラインで話し合った時に「やっぱり自分たちも舞台に立てたおかげで今があるし、ここまでこれた」「だから先生、絶対に後輩たちの舞台もしよう。その時には私たちも帰ってくるから」という言葉があり決めましたね。
演目はさまざまな意見を出し合いながら「あの演目もさせてみたい、これもさせてみよう」という感じで決めました。ただ、創作というよりは、伝統の演目を優先したいという思いはありました。私が(教師の)彼女たちにしたように彼女たちも後輩たちに、後輩たちはまた小さい子たちへみたいな感じで。小さい子どもたちのことを「ぴこ飛琉」と呼んでいるんですけど、そのぴこ飛琉が踊る10演目は全員踊ってきた演目なんですね。途中から道場へ入門してきたとしても、「花の風車」と「浜ぬアーマン小」は必ず経験させています。この年齢、この時期にしか見せられない舞台にしようという感じで決めていきました。
※1舞踊の教師免許保持者のこと。
-タイトルのつむぐは先生がつけられたのでしょうか?
宮城:これは、弟子が持ってきた題なんですけど。私は「手と手をつなぐこの子たちに、私のこの気持ちをつなぎたい」というようなことをずっと伝えていて。「じゃあ先生、『つむぐ』にしよう」ということで決まりました。私の希望が言葉になったというのでしょうか。コロナということもあって、オンラインで意思疎通が取れたのも良かったのかもしれません。教師はみんなそれぞれ活動している地域もバラバラですが、ひとつの舞台を作るためにしっかりとミーティングを重ねてくれたので、それはもう感謝ですね。
-かりゆし芸能公演の舞台本番に向けてどのような思いで臨んだのでしょうか。
宮城:成功させなきゃという思いはもちろんですが、それと同じくらいに、(この子たちの)じいちゃんばあちゃんが見て喜んでくれたらいいなって。必ずしも立派に仕上げてということではなくて、失敗するかもしれないけれど「国立劇場の舞台に立った」とこの子たちが誇らしく感じてくれたら、またそのことをおじいおばあがわかってくれるだけでも素晴らしいかなと思いましたね。
-4歳から上の世代まで、同じように教えていくことは根気もいる大変なことだと思いますが、工夫なさっていることはありますか。
宮城:体当たりなのかもしれません。私が中途半端だと子どもたちも中途半端な踊りしかしないので、だからこそ年齢を問わず体当たりだと思います。この子たちが一生懸命になるには、私が一生懸命にならないといけない。多分子どもたちが一番よくわかっているんですね。先生が今日は遊びだなと思ったら本当に遊ぶし、先生がピリピリ怒っていると思ったらまた真剣になる。だからあえて、ちょっとだけ怒っているみたいな素振りももちろんしますし、またできた時には褒めるしそれぐらいですかね。日頃は優しくないです。でも遊ぶ時には遊んで、踊る時は真剣に踊るという感じかな。どんなですかね。(子どもたちに向かって尋ねる)
比嘉一歌さん:(先生は)練習の時は厳しいから、ちゃんとやろう、一生懸命しようという気持ちになります。終わったあとは、楽しく話をしてオンオフがあるから練習しやすいです。
-今回の舞台をやり遂げて子どもたちの変化など、感じたことはありますか。
宮城:公演後もお稽古は休まずに行っていますが、子どもたちは自信がついたのではないでしょうか。稽古場に入ってくると同時に、「舞台ありがとうございました」という言葉が各自からきちんとあったので。やっぱり年上のメンバーは(家族や周りに)褒められたという実感があるんですけど、年下のメンバーは「おばあからおこづかいもらった!」とか(笑)いくらもらったとか全部正直に言うので(笑)それぐらい自信がついたと思います。「ああ、舞台というのは楽しいんだ」ということを体で表現していました。
-その様子を見たり聞いたりして、先生はどのようなお気持ちでしたか?
宮城:私はこの子たちに輝いてほしいというのもありますが、輝いている子どもたちを見た父ちゃんや母ちゃん、おじいおばあが喜んでいる姿を見たいという気持ちも強いです。父ちゃんや母ちゃん、おじいおばあが喜んでくれるのが「つむぐ」なのかなと思います。
-かりゆし芸能公演は若手実演家の育成を目的として、年齢構成比率を要件に実施していますが、若手育成の難しさややりがいについてお聞かせいただけますか。
宮城:難しさはあまりわからないのですが、楽しさはあります。(インタビュー時に参加した3人を見て)この間まで子ども舞踊しかできなかったこの子たちが、「上り口説」を踊れるようになっていたり。1カ月で子どもは成長するので、本当に先週よりも今週、今日よりも明日みたいな感じで、目に見えて技を磨いてくれるので、そこに対するやりがいはありますね。本当にめきめきと伸びていくので、うれしいです。
うちの生徒たちは素直です。「来週までにはここを直しておいで」と言って、それを直すメンバーは上手になるし、もし直してこなかったら私はまた一から絶対に教えます。でも、みんな素直に直しますね。そして伝統を受け継ごうという姿勢が見えるので、そこはすごいなと思います。
この子達を見て、私が小さい時どうだったかなって考えるんですよ。私は昭和37年生まれなんですけど、小さい頃はお菓子が少なかったんですね。私の先生はいつも黄金糖を持っていて、「はい、今日合格した子は並びなさい」と言われて、並んだらこの黄金糖がもらえたんですよ。私はこの楽しみだけで、舞踊をやってきたので。今は飴玉もガムもいっぱいあるけれど、それでも何かを目標にして踊りが上手になるというのは、今も昔も変わらないかなと思います。
-お稽古の時に子どもたちと対等な印象がありました。喧嘩している子たちを諭す様子も拝見しました。
宮城:喧嘩はどっちが悪いかではなくて2人とも悪いので、お互いに謝らせます。「ごめんなさい」と「ありがとう」が言えたら、世の中うまくいくわけではないですけど、挨拶ができたら私は周りと上手くやりながら生きていけるんじゃないかなという考えがあって。素直にごめんなさいが言えたら、お互いに歩み寄れるじゃないですか。踊りも大事なんですけど「やーなれーるふかなれー(家での行いや習慣が外に出た時に現れる)」です。おうちで毎日喧嘩している子や「おはよう」「いただきます」「ごちそうさま」を言っていない子は、やっぱり道場でも喧嘩をするし、挨拶もしないんですよね。そうなると、親を呼んで親にきちんとはっきり言います。そんな態度だったらどこにも連れて行けないですよって。やっぱりいつどんな時も周りの人たちに対して挨拶ができるように、心がけていますね。
-道場で大切にしていることはご挨拶ということでしょうか。
宮城:「ありがとう」と「ごめんなさい」そして挨拶ですね。道場に入ってくる時に、「先生、おはようございます」ときちんと挨拶ができなかったら、入口に戻します。家でどんなことがあっても、道場に入ってくる時には社会に出ることなので、きちんと切り替えができる子どもになるようにということですね。
-子どもたちのモチベーションを維持し、継続して舞踊を続けていくために意識していることなどありますか。(例えば小学校から中学校に上がるにあたり、部活動に入るタイミ ングや受験などで辞めてしまうという場面もあるかと思います)
宮城:そうなんですけど、ありがたいことにみんな続けてくれています。ありがとう(子どもたちに向かって)。うちの道場は昇段試験があるんですよ、今28回目なんですけど。1年に1回、私たちが審査して(帯が)白から黄色、黄色からオレンジというふうに徐々に上がっていって、10年目には黒になります。彼女(一歌さん)が黒帯をもらっているんですけど、黒になったらお手当がもらえるんですよ。「先生は今回いくらもらいましたよ、だからこの中からこういう内訳で振り分けますね」とお金の流れをみせることで、「じゃあこの時は裏方に回ろう」「着付けの先生たちにこれだけのお金がいくんだったら、自分たちで化粧をしよう」とか子どもたちの方から意気込みが出てきて率先してやってくれるようになりましたね。また私が難儀しているのを見ると、お母さんたちも「じゃあ先生、髪結は私がやる」「着付けは私がやる」と率先してやってくださいます。
-帯は何種類あるのでしょうか。
宮城:白、黄色、オレンジ、ピンク、青、赤、緑、紫、茶色、黒。
-今回の公演で衣装など工夫したことはありますか?
宮城:やっぱり「花の風車」の風車ですね。風車は、作ると壊すのくり返しでした。本当にしょっちゅう壊す子たちがいるのですが、壊さない方が無理だなと思い、台所の菜箸を入れて赤いテープで巻いたり、ボンドで補強したり、お母さんたちが工夫してくれて、とっても上等になって、助けられましたね。
頭も向立(こうだて)※2をきちんとしたかったんですけど、やっぱり小学1年、2年、3年生には大きかったので、子どもたちに絵を描いてもらって貼ったりして工作みたいな感じでやりましたね。(公演で着用した衣装)鶴亀のかざりのアイデアは、小学校6年生の比嘉千暁(ちあき)がアイデアを出してくれました。彼は絵や図工で飛び抜けている子なんですよ。日頃の練習とちがって、本番で舞台に立つとすごいんですよ。私が言ったことを事細かに覚えていて、全部把握してくれている天才です。その子が「みんなはまだ顔が小さいので、こういう頭かざりにした方がいいです」と言ってくれて。お母さんたちも鉛筆とハサミと色鉛筆を持って四苦八苦しながら1日で13個ぐらい頭かざりを作ってくれましたね。
※2琉球舞踊の衣装で、額に付ける飾りのこと。
-指導に携わってきて心に残っている出来事や忘れられないことはどんなことでしょうか。
宮城:毎日が忘れられないですね。日記を書くようにしているんですけど、一人一人、みんなの舞台を忘れられないんですよ。「この時あなたはこうだったね」と記憶が残っていて、全て忘れられないんですね。
今回の「つむぐ」公演に関していえば、友寄景音(ケイン)という男の子がいて、「鳩間節」と「かぎやで風」に出たんですけどね。彼は3年ぐらい前に髄膜に菌が入ってしまい、その菌で熱が1週間下がらなくて起き上がった時には歩けなくなってしまったんですよ。全く歩けなくてずっと入院をしていて、みんなで「早く帰ってきてね」って応援していました。ですが退院後も歩けなくて、お医者さんも原因不明ということでした。どうして歩けないのかがわからないし、足袋も履けないぐらいに足もパンパンに腫れていました。それでも彼は練習にきたんです。あの時、5年生になっていて体も大きくなっていたけどお母さんもお父さんも一緒にずっと車椅子で練習にきてくれて、舞台には出られないけれども、舞台袖で車椅子で見学していました。
その彼の姿を見た時に、「絶対に舞台に立たせよう」という気持ちになりました。みんなは心配して「大丈夫?」と言っていたけど、私は言わなかったんです。「大丈夫!絶対に踊れる!」と。最初の1年間は本当に動けなかったんですけど、椅子に座らせて手と足の動きを練習する形で稽古して、今はもう「かぎやで風」も「鳩間節」も踊れるようになりました。すごいなあと思います。
彼の踊る姿をみにきた95歳のひいおばあちゃんは、「ここまでできたのが見れたから死んでもいいよ」って言うくらい感動したと言っていましたね。
-長年指導に携わるなかで、ご自身のモチベーションを維持するために心掛けている こと、指導するにあたって大切にしていることをお聞かせください。
宮城:練習が終わった後のオリオンビールですかね(笑)あとは、この子たちが上手になっていくことですかね、輝いていますよね。私は、琉球舞踊で世界各国に行かせてもらったんですけど、やっぱり沖縄が絶対にいいんですね。その沖縄を世界に広めようとしている弟子たちがいて、さらにそのお姉ちゃんたちを目標に、小さい子たちがその想いも受け継いでくれたらうれしいです。
沖縄に生まれて沖縄に育って沖縄の(伝統)文化をやっていることを誇りに思って欲しいなと思います。それが多分モチベーションだと思います。
-琉球芸能の現状と、これからについて思うこと はどんなことでしょうか。
宮城:琉球舞踊の始まりは祈りからといわれていますが、実際に踊りの中で祈りの所作をしながら、心から祈っている人はいるのかなって時々思うんですね。踊りを踊ることによって先人たちとつながることができるのですが、それを今の時代はお金にしないと生きていけないじゃないですか。昔は本来の意味のとおり、祈ること、踊ることが誇りだったと思うのですが、今はそれだけでは生活していけないので、舞踊家がアーティストとして食べていけるように、若者たちが舞台を踏める機会をと思います。
ヨーロッパでは伝統芸能、アーティストがとても重宝されていると聞きました。
ところが沖縄ではどうなのかと言った時に、文化、芸能に恵まれているせいか、そうでもない。それなら私たちは踏ん張って頭を使って、この子たちを輝かせたい。それで結果的に生活が潤うなら、あれこれ言われても多方面に挑戦すべきだと思っています。芸能を続けるこの子たちが『伝統芸能をしています』と胸を張って言えるように、この子たちの時代からはそうさせたいですね。
-道場や先生のこれからの目標や、新しく挑戦したいことはありますか。
宮城:私がしたい新しい挑戦は海外公演です。アジア、ヨーロッパや南米、いろんなところで公演したいです。
例えば、自分たちが身に着けている衣装の一つ一つが、琉球の貿易と結びつきますよね。金襴(ちんらん)は香港かなとか、絣だったらタイかなとか。「あ、これはこの国から来たんだ」というルーツをみんなに見せたいです。さらに琉球芸能には、1871(明治4)年、廃藩置県後の沖縄が見えるような演目もたくさんあります。
なので時々、お稽古の一環で新聞の日を作って新聞を見せるんです。沖縄タイムスと琉球新報をとにかく見せて、気に入った記事を自分のノートに貼っていくんですけど。「どの記事を選んでもいいよ」って自由にさせていて、そうするとこの子は「組踊が好きなんだ」とか、反対にそうではなくて、芸能以外に関する記事、例えば「お墓」が好きな子もいたりするので、そのノートを見たらこの子の感性がわかるんですよね。そして、こんなふうに新聞記事を集めてみると、やっぱり沖縄は何か飛び抜けていると感じますね。記事に載っている何かしらのモノ・習慣や芸能が昔の海外貿易とつながっていると思うし、琉球の歴史と琉球舞踊の演目もどこかつながっていると思うんですよね。紅型も絣もどこかの国からの知恵によって、沖縄に持ってこられたんじゃないかなって。沖縄独自のものが今ではこんなにきれいになっていますけど、色合いにしても何にしてもそれぞれ他国からの素晴らしい知恵があったから、沖縄は成り立ったのではないかなと思うので、やはり海外に行ってみたいと思います。
この子達には、沖縄に対しての誇りを感じてほしいです。海外に行きたいから琉球舞踊をやるのではなく、沖縄が好きだから琉球舞踊をやるというふうに。沖縄を世界に広めるために、演目の時代背景もつなげて勉強してほしいです。赤足袋から始まって、どうして白足袋になったのだろう。白足袋からどうして裸足になったのだろうとか。そういう疑問を1人ずつ持ってほしいですね。
この子たち(参加した3人)はもう持っていますね。県花と言えば何ってみんなわかると思うので。県花は?(子どもたち答える:デイゴ)、県木は?(リュウキュウマツ)県魚?(グルクン)県鳥は?(ノグチゲラ)。
本当に沖縄を好きになってほしい。沖縄ってすごいと思います。先人たちが残したこの文化がこんなに溢れんばかりある。これって本当にすごいことなので、誇りを持ってほしいです。だからこれからの目標は、この子達が誇りを持って、琉球から世界にどんどん飛び立ってほしいです。それもあって名前は飛琉なんですよ。
-県魚や県花というのは、道場で教えているのでしょうか?
宮城:(道場内の)昇段試験で出題します。帯が白から黄色になる時に、「どうして琉球という名前がついたんだろう」「どうして琉球舞踊なんだろう」と教えています。大人になった時に、「どうして沖縄舞踊ではなく琉球舞踊なんですか?」って聞かれて答えられない琉球舞踊家は少し残念だと思うので、そこは徹底的に新人賞※3を受ける前にはやっているつもりですね。設立当初からずっとやっていますね。
沖縄県民は何万人とか、南は喜屋武岬で北は辺戸岬とか。東風平、南風原、今帰仁とか地名を書けないと舞台には立たさないですね。「四季口説」「上り口説」はどうして口説なのか。「上り口説」を踊るにあたってわからないで踊るよりは、上りに行って山川港で亡くなった人たちの気持ちを思いながら、「下り口説」を踊るとか。細かく話すとやっぱり子どもたちの気持ちも変わってきたので、そういった背景も話すようにはしていますね。
※3県内新聞社が開催する「古典芸能コンクール」の各部門に関する賞のこと。
-先生ご自身がこんなに沖縄のことを意識して伝えていきたいと思うようになったのはいつからでしょうか?
宮城:海外に行って帰ってきてからだと思います。海外は県の事業などで、高校を卒業してからあちこち行かせていただいたのですが、帰ってくるたびにやっぱり沖縄がいいなと常々思っていて。もちろんいい国もあるですけど、でもやっぱり沖縄が好きだなって。これはもう血かなと思って、それからどんどん琉球のことについて調べました。
私たちが勉強したい時には県立芸術大学がなく、大人になってしばらくして芸大ができた時にはもう羨ましくてたまらなかったのです。ですから、公開授業には必死に参加しました。そこで得たものを自分の中だけで溜めるのではなく、子どもたちに伝えるようにしていますね。伝えると私も記憶に残るので。
-SNS(主にInstagramアカウント名:haruokinawa)で、団体の活動の様子について発信し、うまく活用している印象ですが、広報として意識していることはありますか?また、どのような運用(投稿)を心掛けていますか?
宮城:「最初は練習もしないで何でずっとカメラばっかり」と思っていたんですけど、やっぱり彼女たちのSNSでの広報はすごいし、面白いですよね。
今回の公演では、DMというのがいっぱい来まして、「どうしてもっとチケットを準備しなかったのか?」というメッセージもありましたし。今回のかりゆし芸能公演のチケットの売れ行きは、SNSの影響も少なからずあると思います。
-出演された3人にもお話を伺います。公演に出た感想や当日感じたことを教えてください。
比嘉一歌(いちか)さん(15歳)
前回は3年前ぐらいに(自主公演で)嘉手納文化センターの舞台に立ちました。こういう大きな舞台が久しぶりで、本番の日は、劇場に着いた時から心のどこかではずっと緊張していましたね。だけどやっぱり舞台に立ってみると緊張は忘れて、この瞬間のために頑張ろうというやる気だけで踊りました。達成感がとてもあって楽しかったです。
-公演までのお稽古で大変だったことや、頑張ろうと思う気持ちにつながったことを聞かせてください。
小渡朱莉(じゅり)さん(14歳)
初めて「上り口説」を舞台で踊ることになって、メンバーがみんな自分よりも年上のお姉ちゃんたちで練習でも差が結構あったけど、それをお客さんがあまり感じないような踊りにしようと思って頑張りました。実際にやってみて、手汗がすごくて、踊っている時もずっと緊張していたので終わったらホッとしました。
-この道場に入るきっかけを教えてください。
中村麻桜(まお)さん(14歳)
自分より年下のいとこがまず道場に入って、それから私も琉球舞踊をやってみたいと思って道場に入りました。(今回のかりゆし芸能公演で舞台に立ってみて)「上り口説」は初めてだったのと、男踊だから緊張して。国立という大きな舞台ということも緊張したんですけど、お姉ちゃんたちと踊ってちょっと安心感もあって頑張れました。
-先生は一歌さんにとってどんな存在ですか?
比嘉一歌さん
4歳から10年間一緒にいて、最初の頃と変わっていないというか。ずっと同じ対応をしてくれて、厳しかったり優しかったりおもしろかったりで一緒にいて楽しいです。ずっと通えている理由は、行って楽しいからが一番大きいです。
-早替えをやってみてどうでしたか?
小渡朱莉さん
多分自分たちだけで早替えだったら絶対に間に合っていなかったから、先生たちの存在が大きかったと思う。髪型を男から女に替えるだけですごい大変なんだなと思ったから、先生たちみたいに自分で着付けをして髪も結えるようになりたいなと思いました。
-男踊が初めてということでしたが、その後に女踊への切り替えで意識したことはありましたか?
中村麻桜さん
男踊はかっこいい感じで踊ったんですけど、「貫花」は女の人の踊りだから表情や踊る時の手の動きや足も、男踊だったら結構上げるけど女の踊りだから少し落としたりとか、そういうところを意識して踊りました。切り替えは先生が普段からちゃんと教えてくれたので、練習通りにやっていたら、結構上手にできました。
-みなさんのこれからの目標を教えてください。
比嘉一歌さん
今回の公演を通して思ったのは、化粧・髪結・着付けはできるようになりたいなと思ったのと、お姉ちゃんたちみたいに広い範囲の子どもたちにも化粧や着付けをやって、もう少し頼りになるような存在になりたいと思いました。お姉ちゃんたちもみんな世界に飛び立っているから、それについて行けるように自分の技術も磨きながらこれからもお稽古をしていきたいと思いました。
小渡朱莉さん
まずは新人賞を取ることと、学校の友達とかもあまり琉舞を知らない人が多いから、そういう人に琉舞を知ってほしいなと思った。沖縄だけではなくいろいろな地域の人に琉舞を知ってもらいたいなと思ったので、自分でお姉ちゃんたちみたいに琉舞を教えられるようになりたいなって思います。
中村麻桜さん
お姉ちゃんたちみたいに早く上手な踊りができるように、日々のお稽古からちゃんとやって、沖縄の伝統芸能をもっと広めて行けるように頑張りたいなと思いました。
-みなさんのお話を聞いてどうでしたか?
宮城:ありがとうございます。本当にすごいなあって、ありがとうございます。お利口さんたちです。
取材日:2022年9月30日(金)
取材場所:(公財)沖縄県文化振興会
(※写真撮影のためマスクを一次的にはずしていただきました)
プロフィール
宮城恵子(みやぎ けいこ)
玉城流 踊ぃ飛琉 宮城恵子琉舞道場代表
琉球新報伝統芸能 「若衆芸術祭」選考委員
琉球新報社主催琉球古典芸能コンクール 舞踊新人部門審査員
1962年(昭和37年)沖縄県那覇市出身。
姉のお稽古について行ったのがきっかけで、3歳より琉球舞踊を習い始める。28歳で琉球新報社主催 琉球芸能コンクール 琉球舞踊 最高賞受賞。1995年、宮城恵子琉舞道場として活動をスタート。琉球新報社主催芸能コンクールでは、2022年現在までに40名以上の芸能コンクール受賞者を輩出している。そして2010年、団体名を~世界へ飛び立つ琉球の華たち~という意味を込め、『踊ぃ飛琉 ーHARUー』と命名。
現在に至るまで、慰問公演やボランティア活動、海外公演、テレビ出演、MV出演、モデルなど多方面に活動の幅を広げている。現在では「飛琉」の文字にあるように琉球舞踊を通して、沖縄から世界への架け橋となる子ども達の育成に力を入れている。
比嘉一歌(ひが いちか)
宜野湾市立真志喜中学校2年
小渡朱莉(おど じゅり)
浦添市立港川中学校1年
中村麻桜(なかむら まお)
恩納村立うんな中学校1年