ー 勤王流の発祥、歴史について教えてください。
川井民枝先生(以下川井):勤王流は、始祖である比屋根安弼(ひやね あんひつ)(1835〜1901)先生によって八重山で開花し、二代目諸見里秀思(もろみざと しゅうし)(1876〜1945)先生、三代目渡慶次長智(とけし ちょうち)(1887〜1962)先生に伝承され、脈々と受け継がれてまいりました。私は、四世代目の石垣寛吏(いしがき かんり)(1909〜2006)先生から直接指導を受け、伝統ある勤王流の八重山舞踊、教えである手振型「二十二の手」を後世に伝えるべく、2007(平成19)年に「無錆之会」(むしょうのかい)を設立。これまで日々研鑽しながら後進の指導にあたってまいりました。
ー 「勤王流八重山舞踊有志の会」設立の経緯についてお聞かせください。
川井:当初は、無錆之会でかりゆし芸能公演の移動公演に応募しようと思い、文化振興会に足を運びました。ですが担当者から話を伺ううち、文化振興会や県の力を借りて、「勤王流の舞台」を皆さんと一緒につくれたらどんなに素晴らしいだろう!と思いを巡らせるようになり、早速、各先生方へお声かけさせて頂きました。私の提案に、八重山舞踊勤王流祥吉華慶の会の喜舎場慶子先生、八重山舞踊勤王流祥吉ちどり之会の大島ちどり先生がご賛同下さり、「勤王流八重山舞踊有志の会」を立ち上げて舞台をつくることになったわけです。
実は、勤王流は八重山舞踊の流派では少数派で、沖縄本島の方が盛んな状況がありまして。八重山では、四世代目の石垣寛吏先生、森田吉子先生が中心となって後進の指導に尽力されましたが、特に男性舞踊家の寛吏先生は舞台に上がる機会が少なく、私も若い頃は、舞台経験を積むことができない状況でした。ですから私は、「勤王流の舞踊を多くの方に見て頂きたい」という気持ちがとても強いです。本舞台は、その第一歩となったわけですね。
ー これまで上演してきた舞台について教えてください。
川井:1996(平成8)年、第1回リサイタル「あやらかし たぼり」(県立郷土劇場)を初めて開催いたしました。寛吏先生が逝去されたのち、2009(平成21)年に第1回「踊り清列」(ぶどぅりかいしゃ)と冠を新たにし、以来年1回のペースで努めてまいりました。その他、弟子たちが舞台に上がる機会を創出しようと、無錆之会による定期公演「灯々無尽」を現在まで13回行っております。定期公演の際は、国頭村、伊是名島、久米島など、八重山舞踊を観る機会の少ない地域へ積極的に足を運び、披露するよう心がけてきました。この二つの舞台公演が活動の両輪です。
ー かりゆし芸能公演「八重山ぬ踊り(やいまぬぶどぅりぃ)」。会場はお客様でいっぱいでした。
川井:立ち見客で会場が埋まっていましたね。私自身、八重山のお客様の「舞踊愛」を肌で感じ、足がすくむほどでした。
今回、舞台監督を務めてくださった武松宏明さんは、もともと文楽劇場(東京)で舞台制作を行っていた方で、10年先を見据えた舞台づくりができる人です。舞台機構にも凝り、御嶽で行う奉納舞踊の雰囲気をだすため「張り出し舞台」とし、背景にはスクリーンを設置して石垣の美しい自然を映しだすなど、新しい演出に挑戦しました。お客様は驚いたと思いますが、映像を映すスクリーン枠に本物の蔦を這わせていたんですよ。これも出演者で手分けして山へ行き、蔦を採ってきました(笑)。
そして本公演一番のみどころは、最終演目「鷲ぬ鳥節」。3会主が同時に舞い、あえて「違い」を見せる演出に挑んだのです。所作の違いがはっきりと表現でき、会場からどよめきが上がるほどでした。でもなぜ、このような挑戦的な演出に挑んだのかというと、やはり、勤王流のルーツを辿れば同じ指導者なのですが、長い歴史の中で「違い」が生まれてきました。ですが、この「違い」こそがそれぞれの「魅力」であると若手やお客様へ発信したかったし、互いの違いを認め合えるような舞台にしたいという思いがあったからです。「見る側の意識を変えるためには、踊り手も意識を変える必要があるのでは」と、武松さんの言葉にも背中を押されました。
ー 挑戦の舞台を終え、喜舎場先生、大島先生からはどんな声がありましたか。
川井:「鷲ぬ鳥節」の演出については、お二人とも幕が上がる直前まで戸惑いがあったようでしたが、終演後は、「やってよかった」とおっしゃってくださいました(笑)。それだけ、お客様の反応が素晴らしかったから。互いの流派や舞踊に向き合い、認め合うことができる、そういう舞台が今後八重山で増えていくことに期待したい。
ー 若手を指導する際、苦労する点はどんなところでしょう。
川井:子どもたちは、舞踊の形はちゃんと覚えているんですが、心象的な部分がまだまだ。
例えば、私が子どもの頃はお手伝いで草刈りをよくしたものだから、鎌なんていつの間にか使えるようになっているわけ。でも今の子どもたちは、鎌で草を刈ることなんて滅多にないでしょ(笑)。稽古中に、「鎌で草を刈ってごらん」と言っても、子どもたちは、掴まえた草の根元ではなく先っぽ側をサッと鎌でこするような仕草をするわけ。これでは切れないでしょ(笑)。その時は外へ連れ出して、実際に雑草を刈らせます。すると子どもたちは面白いですよ、一発で納得しますから。かりゆし芸能公演で踊った「山入らば」も、鎌や斧等の農具を舞踊の小道具として用りますが、これらの道具たちが「生活のどんな場面で、何のために使う物なのか」ということをしっかり理解させることが大切だと思います。
加えて、今回の舞台はこれまでの自主公演とは違うよ、ということも話して聞かせました。沖縄県のサポートを受けた「かりゆし芸能公演」の舞台であると。本舞台に立つことの重みを子どもたちに伝えたかったですね。
ー 近年活躍している若手実演家について、どのような印象をお持ちでしょうか?
川井:八重山からも、沖縄県立芸術大学へ進学する若手が増えていますから、石垣島で琉球舞踊を観る機会が増えたと思います。今後益々増えていけば嬉しいですね。また県立芸大で学問的・技術的に学んだ若手が八重山舞踊を学びたいということであれば、どんどんやって欲しい!表現の幅を広げて、「子どもたちが憧れるような舞台」を八重山でもっともっと上演して欲しい。期待しています。
ー 若手の育成状況についても、教えてください。
川井:八重山舞踊は若手の踊り手が少ないので、若手出演者の確保には大変苦労しました。ただ、八重山には各地域に民俗芸能がありますし、八重山高校、八重山商工高校、八重山農林高校にそれぞれ郷土芸能部があり、盛んに活動しています。そういう意味では、確固たる素地があります。ですが、どうしても18歳で島から出てしまう。数年後島に戻り、子育てをしながら舞踊に取り組む場合がほとんど。子育てと家庭、舞踊を両立するのは本当に大変ですが、志す者同士でサポートし合いながら、子育て中でも舞踊を諦めず継続できるような環境を皆さんと一緒につくって、一つでも多く舞台を踏ませてあげたいですね。
せっかく頂いた機会ですから、八重山の現状について少し触れさせてください。
八重山舞踊には、琉球舞踊にあるようなコンクール制度がありません。八重山舞踊は地域の奉納舞踊、民俗芸能、労働歌からはじまっているので、明確な判断基準を設けることが正しいのか賛否が分かれていて。これは非常にデリケートな問題です。あくまでも私個人の意見ですが、石垣島、沖縄本島で指導を行う各先生方も「若手を育てたい」という気持ちを強く持っておられますので、八重山舞踊の継承についてどのようなビジョンを描いていくのか、今後、力を合わせて模索していくことが求められてくるのではないでしょうか。
ー 石垣寛吏先生とのエピソードで印象深いものはありますか?
川井:そうですねぇ。先ほどもお話しましたが、私が若手の頃は舞台に立つ機会がほとんどありませんでした。せっかく巡ってきたチャンスで緊張し、体の震えを抑えられず…悔しい思いをしたこともありました。ある時、「こんな未熟な踊りを見せていては、寛吏先生のお顔が汚れます」と厳しい声を頂きました…。ですが寛吏先生は、「彼女なりに今できることを精一杯やっている。それを見てやってください」と仰ってくださったんです。厳しくも優しい眼差しで芸の道を歩まれている先生でした。
もう一つ、忘れられないエピソードがあります。
私が結婚する際、夫の正昭さんを寛吏先生に紹介した時のお話。その際、寛吏先生は「芸能は家族の協力がないとできない。君はどれだけ理解してくれるのかね?」と厳しく仰ったんです。その言葉に夫は、「理解するように努めます。精一杯協力します」と宣言!あの時、寛吏先生が彼に直接、芸の道の厳しさを諭してくださったことに、感謝してもしきれません。
実は、夫の正昭さんが昨年9月30日、天国へ旅立ちました。
かりゆし芸能公演の上演が12月8日に決まっておりましたから、関係者の皆様には大変ご心配をおかけしました。正直、舞台に立つべきか迷いましたが…、長年、夫に支えて頂いて芸能を続けてきた私が、弱気になって舞台を辞退してしまったら、きっと彼は怒るだろうなと思って。かりゆし芸能公演と第11回目の独演会(12月25日)に何とか立つことができました。夫はすごく器用だったので、舞踊に必要な小道具を作ってくれましたし、「舞踊家の手が荒れてしまってはいけない」と洗い物まで引き受けてくれるような優しい人でした。
正昭さんと出会わなければ、私はこの道を歩めなかった…。
きっと勤王流の神様が、天国の夫に感謝状をあげているはずです(笑)、
ー 最後の質問ですが、舞台に立ち続けられる「原動力」はどこからやってくるのでしょうか?
川井:好きだから、八重山舞踊が。八重山には素晴らしい芸能がたくさんあります。その歌や踊りに秘められている心象部分を自分なりにどう表現できるか、そういうところに強く惹かれています。八重山の踊りに込められた「精神性」を学び、見る人の心を震わせるような美しい踊りを踊れるようになりたい。その境地にたどり着けるまで、大好きな八重山舞踊を必死に踊り続け、皆様へお伝えできれば幸いです。
ー 川井先生の舞踊愛、しかと受け止めました。今後益々のご活躍を楽しみにしております。どうもありがとうございました。
取材日:2019年12月16日(火)
取材場所:勤王流八重山舞踊「無錆之会」 南城市つきしろ道場
プロフィール
川井民枝(かわい たみえ)
石垣市白保出身。八重山高校へ進学し郷土芸能部に入部するも、一旦は舞踊を断念。憧れの八重山舞踊を本格的に学びたい気持ちが募り、30歳で勤王流八重山舞踊 四世代目の石垣寛吏師に入門。抑えていた舞踊への情熱が溢れ、時間を取り戻すかのように稽古に励む。石垣寛吏師より1992(平成4)年に教師免許、2000(平成12)に師範免許授与。石垣市や沖縄本島那覇市にも道場を開設し、行き来しながら研鑽を積み、平成19(2007)年に「無錆之会」を設立して精力的に活動。2016(平成28)年「川井民枝芸歴30周年記念公演」を国立劇場おきなわで開催。現在は石垣市白保の本部道場を拠点に、後進の指導や勤王流八重山舞踊の保存・継承に力を注いでいる。