ー 琉球古典音楽野村流保存会 中部南支部の設立経緯について。またこれまで上演されてきた公演についてお聞かせください。
大湾朝重先生(以下大湾):琉球古典音楽野村流保存会の中部支部として活動してきましたが、会員が700名を超えたため、2016(平成28)年4月に南・北に分割する運びとなりました。現在南支部(西原町・浦添市・宜野湾市)に320名、北支部(北中城村・中城村・北谷町・沖縄市・具志川・嘉手納町・読谷村・恩納村)に300名を超す会員が在籍しております。私が主宰する大湾朝重研究所は南支部の所属で、月・火・木曜日の週3回、約2時間の稽古を行っており、大学生、社会人、先輩方まで幅広い世代が稽古を共にしています。
これまでの舞台に関しては、2016年に南支部を設立して以来、年2回「独唱会」を毎年行ってきたほか、2年に1度の「定期公演」も若手会員の成長の場となっております。今回、第3回目となった定期公演を「若者の芽(いぶき)」へ名称をかえてかりゆし芸能公演に初挑戦。11月1日に無事舞台を終えることができました。
ー 11月1日に行われた公演「若者の芽」。タイトルに込めた大湾先生の想いをお聞かせください。
大湾:「若芽」である若手たちに、しっかりとバトンタッチしたいという先輩方の気持ちも込めてこのタイトルに決めました。公演には総勢80名が出演しましたが、歌三線はじめ箏・笛・胡弓・太鼓の器楽奏者も含めて全て20代30代で構成することができました。というのも、かりゆし芸能公演は40代以下の割合を半数以上にすることが条件なのですが、文化振興会の担当者から、全出演者が20代30代で構成された公演はかりゆし芸能公演はじまって以来だと伺いました。
私がなぜ、若手だけで舞台をつくることにこだわっているのかというと、30代の頃に開講した子ども向けの市民講座「カンカラ三線教室」が大きなきっかけとなっています。
その当時、共働き世帯が増え、夏休みの間中子どもだけで遊ぶ様子が大変気にかかっていました。時間を持て余す子どもたちに三線の魅力を紹介したいと思い立って、宜野湾市文化課に企画を持ち込みまして「カンカラ三線教室」がスタート。以来20年間、地域の先輩方にサポートしてもらいながら、私もボランティアで演奏指導を行ってきました。このカンカラ三線教室で出会った小学生の中から、嬉しいことに、教師免許を授与されるまでに成長してくれた若手もおり、彼らの成長こそが私の一番の願いでもあるんですね。
ー 多くの歌い手がいる中、古典独唱の歌い手はどのように選ばれたのでしょうか。また古典独唱には大きな重圧がかかると思いますが、難しさはどんなところでしょう。
大湾:独唱には技量が求められますし、野村流の形を崩さずに歌いこなすことも重要な要素ですから、歌い手の人選については野村流の幹事、評議委員など、組織全体で決めています。
古典独唱の場合、日々の稽古で培った自分なりの歌を、舞台上でどう引き出せるかということに尽きます。やはり本番前には、「失敗しないかな…」と精神的な重圧から大きな不安に襲われますし、そうなると、あれほど練習したのに稽古通りの息継ぎが出来ない、という状況になってしまうんですね。そのバランスを舞台上でうまくとりながら、歌い通せる技量が重要です。私自身、18歳で三線と出会って約50年ですが、独唱の重圧はいつまでたっても変わりません。ましてや弟子の前で失敗するわけにはいきませんから、皆さん以上に緊張しますよ(笑)。ちょっと色気をだすと失敗してしまいますので、最後までしっかり歌い通そう、そう穏やかな気持ちで努めるようにしています。その重圧の中で歌い上げた時の充実感は何とも言えません。
ー 公演の前日10月31日、残念ながら首里城焼損というショッキングな出来事がありました。大湾先生、出演者の皆さんにも動揺があったかと思います。
大湾:そうですね…。首里城が燃えていく映像を見て、大変ショックでした…。正直、公演当日は沈んだ気持ちでしたね。ですが、準備を進めてきた若手公演。皆でしっかり舞台を努めて沖縄の芸能をもっともっと広めていかなければならない、そう叱咤激励を受けていると受け止め、あえて話題にはせずいつも通り舞台に臨みました。私は舞台監督として公演を進行しましたが、出演者の皆さんも、きっと私と同じ気持ちだったのではないでしょうか。
ー 終演後に回収したアンケートの中に「古典音楽独唱『散山節』(さんやまーぶし)」(独唱:宇栄原宗久さん)が、まるで首里城のことを歌っているようで涙がでました、との回答があったそうです。
◯古典音楽独唱「散山節」
[歌詞]誠かや実か 我肝ほれぼれと
寝覚めおどろきの 夢の心地
[訳] 本当の出来事なのか わが心は呆然とし
まるで夢に驚いて 目覚めたような心持である
大湾:今初めてそのお話を聞きました。確かに、散山節の歌詞と首里城の焼損には比例するところがあるような気がします…。散山節の独唱を任された宇栄原さんがどういう気持ちで歌ったかはわかりませんが、そういう風にお客様が感じて下さったのであれば、彼の歌に首里城への想いが表れていたのかなぁ。お話を伺ってそう感じます。
ー 若手の演奏家が増え、活躍の幅も広がっておりますが、若手の活躍について大湾先生はどのような印象をお持ちでしょうか。
大湾:沖縄県立芸術大学が開学したのが大きいと感じています。ですが私の研究所の場合、近年は琉球大学の芸能クラブに所属する学生とのご縁が生まれてきており、歌三線に興味を持った学生たちが継続して稽古に通ってくれるようになってきました。琉大芸能クラブを卒業された先輩方には、活躍されている実演家が多くいらっしゃいますから、今の学生たちにも是非稽古に励んでもらい、どんどん活躍してくれれば頼もしいですね。
ー 大湾先生が若手の皆さんへ伝えたい想いとはどんなものでしょう。
大湾:そうですねぇ。歌の意味をしっかり理解し、自分なりのものにして歌を表現して欲しいということでしょうか。例えば組踊の場合、別れ、再会、悲しみ、怒りの場面など、人間の様々な感情を表現した場面が登場しますが、地謡は立方の表情を見ながらその心情にどうなりきるかが求められます。このことを自分なりに勉強して、その時の力量でしっかりと歌い上げることに尽きると思います。まぁ、言葉にするのは簡単ですが、これが本当に難しい…。
そして、稽古場で稽古をしているだけでは力がつきません。組踊や琉球舞踊の地謡を務めることは、楽しみで三線を弾いている感覚とは全くの別世界ですから。だからこそ、組踊、琉球舞踊、古典独唱など、若いうちから古典の舞台数を数多く踏むことが大切だよ、ということを若い皆さんに伝えたいです。
ー 大湾先生が長年、歌三線と向き合うことができたのは何故なのでしょうか。
大湾:やっぱり、好きなんでしょうね。特に私は楽器として三線が大好きですから、今でもあちこち楽器屋さんを回って、作り手の違いや音の違いについて勉強を続けています。独唱の場合、その人の「声」に合う「三線の音色」があるんです。「この三線がなんとなく好きだから使う、のではなく、自分の声にあう三線だから使う」そういうふうに考えてもらいたいですね。私はすでに数本三線を持っていますが、「自分の声に合った三線と出会いたい」と常に求めています。公演の際には私の三線を若手に使ってもらうこともしばしばですが、是非若手の皆さんにも、音について学んでもらい、声に合った「一生モノの三線」と出会って欲しい。
ー 大湾先生の「夢」をお伺いいたします。
大湾:個人的な夢はあんまりないなぁ。皆さんと一緒に楽しむことが一番ですかね。中には、ここまできたら独演会でも、とありがたい声も頂戴しますが、今はまだその気持ちはありません(笑)。独演会の舞台を作るのは大変勉強になるとは想像しますがね。今は、もっと若手に舞台を踏ませたい、育てたいという気持ちのほうが強い。私自身、自分の持っている技量はまだまだ100%ではありません。ですがそれを隠さず、さらけ出して歌って、若い人たちと一緒に成長していければ嬉しい。
ー 最後に、沖縄の歌三線の魅力とは。
大湾:やっぱり、古典の素晴しさじゃないかな。古典音楽は8割から9割が「恋の歌」なのですが、いつになったら味わいのある恋の歌を歌えるのか、見当もつかないほど奥が深く、歌えば歌うほどにその味わい深さに気づかされます。先達の先輩方が、こんなにも多くの魅力的な歌を残してくださったことに感謝しながら、沖縄の古典音楽の素晴しさを、若手の皆さん、またお客様へ伝えられれば幸いです。
ー 大湾先生の若手への愛情、琉球古典音楽への愛、存分に拝聴いたしました。大切なお稽古の合間をぬってのインタビューでしたが、どうもありがとうございました。
取材日:2019年11月5日(月)
取材場所:大湾朝重研究所
プロフィール
大湾朝重(おおわん ともしげ)
大湾朝重研究所主宰 1950(昭和25)年生まれ、宜野湾市出身。18歳の頃より地元・喜友名青年会のエイサーで大太鼓担当として活躍していたが、地謡(ジウテー)を務める先輩方の姿に憧れ三線の道を志す。20代前半で島袋良昭先生に入門し、幕開け斉唱で初舞台を踏む。以来約50年、大湾朝重研究所(1986[昭和61]年開設)で指導を行いながら、子ども向けの市民講座「カンカラ三線教室」を開講し20年間ボランティアで三線指導にあたり魅力を発信。「琉球古典音楽野村流保存会賞」設立メンバーの一人として企画・運営に携わったほか、現在も数々の舞台で地謡を務めている。2016(平成28)年10月、大湾朝重研究所 開設30周年記念公演「絃ぬ縁」(いとぬゑん)を開催。