ー 2007年2月に設立された尋藝能塾ですが、設立の経緯と主な活動についてお聞かせください。
島袋光尋先生(以下島袋):一つの舞台をつくる際、演目に応じて出演依頼をするのですが、引き受けてくれた出演者と1対1で稽古が出来るような環境、また最終的な詰めの全体稽古ができるような環境をつくって、組踊を中心に琉球芸能の普及・発展・継承に微力ながら力になれれば、という思いがありました。
主な活動に、那覇市ぶんかテンブス館で定期的に開催される「組踊寄席」などへの出演や、那覇市立銘苅小学校で小学生を対象とした「組踊ワークショップ」の実施があります。銘苅小学校の組踊ワークショップは、2006年から現在まで13年間継続して実施してきました。
琉球舞踊などの経験が全くない子どもばかりが集まるのですが、組踊「銘苅子」の上演を目指して今年も夏休み明けから稽古が始まっており、来年2月の上演へ向け週3回お稽古をつけています。子どもたちへ組踊を普及する活動としては、私の祖父、島袋光裕先生(1893〜1987)が元気な頃も「高校生のための組踊鑑賞教室」と銘打って学校公演を展開していましたから、そのご縁もあるのかなと感じています。私も演者の一人として公演に参加し、宮古八重山、沖縄本島など各地を回りました。
ー 2018年にNPO法人尋藝能塾となり新スタートを切りましたが、法人化のきっかけ、また手応えについてお伺いします。
島袋:活動自体に大きな変化はありませんが、NPO法人だと社会的な信用が得られますから、様々な申請を行い易くなり、また得られた収入で衣装や備品製作、それらを貸し出すことで皆さんに還元できるような経営にしたいと考え、NPO法人を取得しました。県に法人化を申請する際、文化関係でのNPO法人団体がほとんど無いため、担当者もどの分野に入れようかと迷ったほど。NPO法人とはいえ会社経営ですから、これから先は経営者としての能力が求められます。実は私自身、若い頃に会社を経営したこともあり、その時は倒産させてしまいましたから、経営の難しさは重々承知しているつもりです。今後の運営については、模索を続けるしかありません。77歳になってから会社を創る人がいるねぇ、と皆さんには笑われています(笑)。光裕先生も道場を立ち上げた時は63歳と遅かったですが、それ以上に遅いからですから。
ー 若い頃に会社を経営されていたということですが、これまで芸能とは別でお仕事をなさってきたということでしょうか?
島袋:私は、18歳で沖縄工業高等学校を卒業してから定年まで、様々な仕事をしてきました。正直な話、芸能だけで食べていくのは難しかった。もちろん、故宮城美能留氏(1935〜1986)のように芸能一本だけの方もいますが、私は会社員や公務員、琉球政府にも勤めたりして、色々な仕事をやりました。20歳にならない頃に踏んだ初舞台の時も仕事をしていましたから、仕事を終えた後で稽古を重ねるという日々でした。焦る気持ちもありましたが、カメのペースでいいさぁ、と自分自身に声をかけながらゆっくりゆっくり芸能を続けてきました。
ー かりゆし芸能公演についてお伺いいたします。
8月31日(土)の大宜味村公演では、「子ども×伝統芸能公演」として小学生から19歳までの立方だけで組踊「二童敵討」を上演し、大好評でした。配役や指導に込めた想いをお聞かせください。
【配役】
阿麻和利:翁長俊輔(高校2年生)
鶴松:森山和人(高校2年生)
亀千代:森山康人(高校2年生)
母:佐渡山晴(19歳/専門学生)
供1:宇良佳祐(中学2年生)
供2:末吉心優(中学3年生)
供3:佐渡山開(高校2年生)
きゃうちゃこ持:佐渡山詠(小学5年生)
島袋:今回出演した高校2年生の4名とは、彼らが中学生の頃から繋がりを持っていたので、この4名に舞台の機会をつくってあげたいなぁ、子どもたちだけで舞台をやってみたいなぁとずっと考えていました。
阿麻和利役の俊輔は、今回初めて一人で化粧に挑戦しました。稽古の際、「今回は自分で化粧をしてごらん」と声をかけてね。俊輔も自宅で練習を重ねてくれ、本番は見事に化粧も演技もこなしてくれました。また森山康人、和人は双子兄弟ですが、二人とも芸能のために髪の毛を長年伸ばしており、自毛だけで髪結ができるほど。孫の佐渡山開を含めたこの4名はまだ高校生なので、将来の選択肢は色々あると思いますが、芸能が好きな子たちばかりですよ。それぞれ学校は異なりますが、同級生としてまた芸能では良きライバルとして、互いを高め合ってくれたら私としては嬉しいなぁ(笑)。今回の大宜味公演を終えた夜は、子どもたちの思い出になればと思って皆で一泊しました。子どもたちは夜遅くまで「加那よー天川」なんかを踊って歌って遊んでいたようです(笑)。
ー カーテンコールでは拍手が鳴り止みませんでした。終演後の子どもたちの様子はどうだったのでしょう?
島袋:それがね、メイクと衣装をとった瞬間に子どもに戻るんですよ(笑)。役が終わればいつも通り。子どもは大人以上に切り替えが上手。だからこそ、メイクをしたら役になりきらないとダメよ、と常々言っています。「物語の内容まできちんと把握しておかないと、お客さんは感動しない」と。それができなければ舞台はただの快感で終わってしまいます。
だけどね、この子たちにしろ、銘苅小学校の子どもたちにしろ、指導を通して彼らから教わることがいっぱいあるんですね。
ー 大人側が子どもたちを信頼して舞台に送り出すことが大切なのだと、今回の舞台を見て感じました。
島袋:というよりも、彼らは舞台経験が豊富ですし、4〜5年前から積み重ねてきた稽古の結果がたまたま大宜味の舞台で出ただけですよ。公演に向けて全体で合わせたのは3回程ですし、彼らに任せておいても、本番に向けて自ら稽古が出来る状態にまで成長したということなのです。彼らにとって今回の舞台は集大成ではなく、これから先も続く舞台の一つにすぎませんし、僕自身、以前の舞台について聞かれても「あれ?どんなだったかなぁ」と覚えていません(笑)。そういう意味では、やはり稽古の時間が大切です。
ー 台詞はウチナーグチですが、指導する際、口伝での伝承の難しさを感じることもありますか。
島袋:子どもはものすごく吸収が早いし対応力も高い。それは踊りでもいえます。だからこそ、指導する側が正しい発声、発音、話し言葉で教えなければなりません。最近はウチナーグチではなく、日本語ウチナーグチになってしまっているので、本当のウチナーグチを子どもたちへどう伝承するのか、大人側が問われているのでは。また指導は、やはり「我慢」だと思います。稽古などで長い時間を共に過ごすと、個々の性格や運動神経、耳の良さなど様々な面が見えてきますから、それぞれに合う指導方法を心がけています。一人一人の成長した姿を舞台を通して見れることは喜びの一つと言えるでしょう。
ー 現在、多くの若手実演家が活躍していますが、若手の印象、期待することについてお伺いします。
島袋:若手の活躍は本当に素晴らしいと思います。ですが、まだまだ芸能一本で食べていけない厳しい現状があります。先ほども述べましたが、私が20代だった頃も、仕事をしながらでないと琉球芸能を続けることが難しい時代でした。ところが、残念ながらその状況は現在も変わっていません。沖縄県立芸術大学や国立劇場おきなわが設立され、舞台数はどんどん増えていますが、実演家の収入面では難しい課題が山積み。その一方、大きな目標ができましたね。それは、保持者、人間国宝になるという「夢」。若手の実演家はこの大きな「夢」「目標」に向かって、厳しい道のりではありますが鍛錬を積むことができるでしょう。それでも、全ての実演家がなれるというわけではありませんが…。無形というものは奥が深く、難しいものです。
ー 実演家として島袋先生が今後挑戦したいことや夢を教えてください。
島袋:先輩である故真境名由康氏(1889〜1982)は90歳を超えてもなお舞台に立たれていました。私も由康先生のように、90歳を超えても舞台に立ち続けたいという夢があります。ウサギとカメの話で例えるなら、私はカメ。カメのようにゆっくりゆっくりといつまでも現役で舞台に立っていたいですね。もう一つは、後継者をどう育てていくか、という大きな課題。島袋光裕先生から私自身が努力して受け継いだ芸については、少なくとも誰かにバトンタッチしなければならないと思っています。そういう意味では娘の佐渡山也子の存在は大きい。彼女と孫の世代まではおりますので、どうにか継承して欲しいのですが、こればっかりは押し付けることはできません。どちらにせよ、孫の晴(はる)、開(かい)、詠(うた)の成長は楽しみですね。
また尋藝能塾は、海外で組踊を上演したいという夢があります。我々ウチナーンチュのルーツである琉球王国が誇る組踊や琉球舞踊を、世界中の方々に見てもらいたいので、是非とも海外で上演してみたいです。それを見据えて公演では、日本語字幕に加えて英語字幕も準備して、海外からお客様がいらしても舞台を楽しめる上演環境を長年かけて構築してきました。
ー 最後に、舞台人として舞台に立ち続けられる原動力とは。
島袋:島袋光裕先生から受け継いだものを次世代へ伝承しなければならない、という「使命感」。そのためには健康が一番大事で、健康維持に欠かせない大好きなアルコールを毎日飲んでいます(笑)。あとはお酢も毎日飲んでいて、これだけは30年間欠かさず続けていますね。初舞台から考えると芸歴58年目、まだ舞台に上がっています(笑)。
ー 今後ますますのご活躍、そして90歳を超えて元気に舞台に立たれる姿を楽しみにおります。どうもありがとうございました。
取材日:2019年9月12日(木)
取材場所:島袋(しまぶく)流琉舞練場
プロフィール
島袋 光尋(しまぶく みつひろ)
島袋流家元。国指定重要無形文化財(総合認定)「組踊」立方保持者。
NPO 法人尋藝能塾理事長。
1941(昭和16)年生まれ、那覇市西町出身。祖父・島袋光裕氏が昭和31(1956)年に舞踊練場を設立した頃より道場へ通い、稽古をつける島袋光裕氏、叔父・島袋光史氏らの技芸を間近に見て学ぶうち自然と琉球芸能の道へ。昭和36(1961)年、那覇劇場(現那覇市壺屋)で開かれた同練場の第5回発表会で上演された「組踊『姉妹敵討』(抜粋)」の門番役で初舞台を踏む。以来、数多くの舞台を務めながら、一般社団法人 伝統組踊保存会 副会長、男性舞踊家「飛輪の会」会長などを兼務し、組踊はじめ沖縄芸能の普及継承に尽力する他、NPO 法人尋藝能塾を2018 年に設立して若手実演家の育成にも力を入れている。